【”核”の行方】
8月9日は長崎の日でした。
11時2分。
島原出身の祖母は、その日防空壕から立ち昇るきのこ雲を見たそうです。
その下が地獄であるとはつゆ知らず「キレイだなー」と思ったそう。
無邪気な祖母らしい感想だと思いました。
第二次大戦後、米ソの核開発競争が熾烈を極め核の惨禍は忘れ去られていきました。
1962年のキューバ危機でアメリカ自身が『核の脅威』に晒されたにも関わらず。
あれから73年経ちました。
キューバ危機からは56年です。
今、核を巡る世界情勢はどうなっているのか、この先どの方向に進んでいくのかを見通してみたいなと思います(とっても大きな目標)。
(選挙制度のこと書くって言いつつ全然書けてなくてごめんなさい。)
核兵器の広がり
日本での2度に渡る原子爆弾の使用は皮肉にも大国の核開発を加速させました。
その論拠となったのが『核抑止論』という理論です。
「相手は核を持っている。こちらも核を持っている。使えば凄惨な事態になることは確実なのだから使用を思いとどまるはずだ。ただ、思いとどまらせようと思えば同じだけの核を持っている必要がある。」
というストーリーです。
という流れでどんどんどんどん…………核兵器は開発されていきました。
(ただのチキンレースに巨額の富と頭脳が割かれたわけです。世界にとってものすごい損失ですよ。ほんと。)
そんな状況を憂いて、1967年に核保有を戦勝5カ国(アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国)に限定する『核拡散防止条約(NPT)』を、1996年には核実験を禁ずる『包括的核実験禁止条約(CTBT)』を採択します。
が、冷戦終結を迎えても核廃絶に向けた具体的な行動はとられていませんでした。
核なき世界は可能か
そもそもなぜ核を持つに至るのか。
核を持った国はどの様にすれば手放すのか。
今年6月に歴史的な米朝首脳会談があったのは記憶にあたらしいところで、
そこでは『朝鮮半島の”非核化”』という言葉が盛り込まれることになりました。
ここまで踏み込めたのは、
「敵視されないのであれば核を持つ必要はないよね」
というロジックを作り上げたからです。
基本的に『核兵器を持つ』背景には”恐怖”があります。
「自国を敵と認定している国が核を持っている。
それに対応するには自分たちも核を持つしかない。」
という話です。
現在、核の保有国は先に上げた5カ国(米・露・仏・英・中)と、インド、パキスタン、そして北朝鮮です。
5カ国は冷戦の煽りで、印パはカシミール紛争をきっかけに、北朝鮮はご案内のとおりです。
北朝鮮も印パも仏英中も大きな問題ですが、結局は米露の2カ国が核放棄に踏み出せるかという問題があります。
これまでは社会主義か資本主義かという東西の違いで対立してきましたが、今や社会システムでの明確な”対立”は見受けられません。
あるのは過去の遺恨と疑心暗鬼のみで(のみでと言いましたが国家間対立はそれがとっても大きいのですが)、なにか”きっかけ”が必要でした。
”核”の転換点
そのきっかけとなった(と後世言われるであろう)のがオバマ前アメリカ大統領がチェコ、プラハで行ったいわゆる「プラハ演説」です。
プラハ演説は「核なき世界」を目標に掲げた演説で、
>核兵器を使ったことのある唯一の核保有国として、行動する道義的責任がある
>核兵器のない世界の平和と安全保障を追求するという米国の約束を明確に宣言する
と明確に提示し、そのステップを明示しました。
また昨年7月には国連で核兵器禁止条約が採択されました。
まだ発効されていませんが、その活動に尽力したとしてICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)がノーベル平和賞を受賞しています(オバマも09年にノーベル平和賞を受賞しています)。
少し話はそれますが、私はこういう条約にこそ唯一の被爆国である日本が率先して行動して欲しいと思っていましたし、被爆者もICANも、まとめあげるのに尽力した国々もそれを強く願っていましたが日本政府は「核保有国の理解を得られていない」と後ろ向きの態度に終始し、落胆の声があがりました。
▼核兵器禁止を目指す初の国連会議 日本の空席には「#wishyouwerehere」
採決でも反対票を投じ、批准を拒否しています。
今回の広島、長崎では被爆者から参加の表明をと水を向けられますが記念式典でもその後の被爆者との話し合いでも条約不参加の意思を表明しています。
▼安倍首相 核兵器禁止条約不参加「変わりない」
戻します。
世界は核なき世界へと少し舵を切ったように私には見えます。
そもそもたった少数の国のみが保有できるというのはかなりアンフェアですし、グローバル化が進み世界がボーダーレスになっていく中で、核兵器が果たしてどこまで”抑止力”を持つかは疑問です。
2009年に始まったこの流れは続くのかそれとも止まるのか。
これは、『恐怖に対抗するための”武器”を手放す』という点において、アメリカ国内の銃規制にも通底していると考えています。
人類はどちらを選ぶのか。
私はこの流れは止まらないだろうと見ています。
希望的観測ではありますが。
いつ答え合わせができるのか。
自分が生きている間なのかそれとももっと先なのか。
ただ、被爆地の血縁者を持つものとしても、核の行方は注意深く追っていきたいなーと思う次第です。